愛されているのに帰省がしんどい。でも、後悔はしたくない

当ページのリンクには広告が含まれています。
愛されているのに帰省がしんどい。でも、後悔はしたくない

お盆休みの最終日。私は今年も帰省しなかった。お盆に限らず、お正月もゴールデンウィークも帰省しない。
子がいる姉と弟が帰省するので、私は遠慮しておく。さほど広くはない家に3家族が集まるだけで限界だろうし、親には孫との貴重な時間を楽しんでほしい。

というのは建前で、実家に帰りたくない自分がいる。

70代後半になった親の年齢を考えれば、あと何回会えるのか。思ったよりもその回数は少ないかもしれないし、前回会ったときが最後になる可能性だってなくもない。
帰省しないことに罪悪感があるし、それを後悔することになるのも怖い。

それでも、私の気持ちは帰省に向かない。

なぜこんなにも、実家に帰ることが気を重くさせるのだろう。私は親に対して、反抗的でも好戦的でもないのだけれど、会えば消耗し、傷つくことが常だ。

実家に着いた瞬間は、親は私に「外の人」として接してくる。
「ああ、やっと親と大人同士の関係になれたのだ」と安堵するのも束の間で、数時間も経過すれば、ぎこちなく気遣いを見せていた親の態度がだんだんと、かつての親と子の関係になっていき、超えてほしくない境界線をぐんぐん越えてくるのだ。

親は、とくに母とはLINEでやりとりしているくらいがちょうどよい。
彼女は、テキストになるとよそ行きの顔を見せてくる。実家から送られてきた宅急便に添えられた手紙は、私が学生の頃から敬語で書かれていた。口うるさくなどない。

親との関係がしんどく感じるようになるのには、二段階のフェーズがあったように思う。
大人になって、無条件に好きだったはずの親の嫌な部分に気づいたときと、自分が中年になって、強かった親が老いていく姿を目の当たりにしたときだ。

人間は不完全なものであり、老いるものだと頭ではわかってはいるのだが、目の前にいる親のふるまいは、老いてもいまだ子どもの前で強くあろうとし、変わらず、絶対的な存在として子供を支配できると思っているような態度がしんどい。

彼らには、しあわせでいてほしいけど、近くにはいたくない。でも、彼らは私に会いたいのだろうなと思う。

子を連れて帰省する人たちや、親のケアをする人たちの存在をまぶしく思う。そう遠くない未来に、親のケアをする必要が出てくるかもしれない。そんなときに私はどうふるまえばいいのだろう。

そんな思いで手に取ったのがこの本。

『父のコートと母の杖』 一田憲子:著

文筆家の一田憲子さんが、ご両親とのことを綴ったエッセイだ。

本書を読んでみると、今、親と良好な関係を築いている人だって、複雑な思いを抱えながら、人生のフェーズで親との関係性を変えていき、付き合っているのだと知った。

一田さんは母の入院を機に、父のサポートをしに実家に通うことになった。その後も、仕事の合間をぬって実家に通い、両親の顔を見に行っている。
一田さんにも親のことが大嫌いだった時期があったのだそう。でも、親と対等の「大人」になって「親と再会」したのだという。子としてではなく、大人同士として親と新たな関係を築き始めたのだ。

両親は、尊敬できなくたっていいのだ

章のタイトルにもなっているこの言葉に、すっと力が抜けていくような気がした。あの人たちは親であって「お手本」にしなくてもいいんだ、と。

私を消耗させ、傷つけもする親の言動をみて「ああいうふうにはなりたくない」という思いがある。でも自分の中に親と似ているところが確実にあり、苦しくなりもする。

これまで、私が疎ましく思おうが、親たちは常に私の味方であったし、私は彼らの愛情を疑うことはなかった。それだけで十分だし、とても恵まれていることなのだ。私だって、親を傷つけたこともあっただろう。

来月にでも、実家に帰ってみようかしら。日帰りにしてみたらいいのかもしれない。ほんの少しだけ気持ちが軽くなったこの勢いで実行しないと、また足が遠のいてしまいそう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次